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大津祭 四宮町天孫神社の祭礼

古来からの交通の要衝 大津
滋賀県の県庁所在地、大津市。
京都からJR琵琶湖線でわずか10分という距離にあるこの街は、古来より都であった京都とのつながりの深い街でした。
その名前からもわかるとおり、古来から大津は湊町として賑わいました。今よりもずっと水運が盛んだった時代。都に近く、琵琶湖畔の良港だった大津には多くの物資が集まりました。
さらに大津は東海道五十三次最大の宿場町でもあり、町内には各地から集まった産物のための蔵屋敷が立ち並ぶほどでした。
陸運、水運の両方に恵まれていたのが、大津だったのです。
古来からの交通の要衝 大津
滋賀県の県庁所在地、大津市。
京都からJR琵琶湖線でわずか10分という距離にあるこの街は、古来より都であった京都とのつながりの深い街でした。
その名前からもわかるとおり、古来から大津は湊町として賑わいました。今よりもずっと水運が盛んだった時代。都に近く、琵琶湖畔の良港だった大津には多くの物資が集まりました。
さらに大津は東海道五十三次最大の宿場町でもあり、町内には各地から集まった産物のための蔵屋敷が立ち並ぶほどでした。
陸運、水運の両方に恵まれていたのが、大津だったのです。

13基の曳山 からくり人形の競演

そうした富に恵まれていた大津には、その分だけ華やかな祭が生まれました。
天孫神社の大津祭は、日吉大社の山王祭、建部大社の祭礼とともに湖国三大祭のひとつに数えられます。
秋もだんだんと深まるころ、祭の季節になると、古く江戸時代に製作された13基の美しい曳山が、街中を巡行します。
祇園祭の影響を色濃く残すこの曳山は、普段は近くにある大津祭曳山展示館に大切に保管されています。

本祭前日の宵宮、日が落ちる時間にになると提灯が灯され、人形で彩られた曳山が美しく浮かび上がります。その姿は、古来からの人々が祭礼を愉しむ様子が目に浮かぶようです。
大津祭のはじまりは、豊臣秀吉の時代、慶長年間から江戸期にかけて(1596年~1615年)に鍛冶屋町の塩売治兵衛という商人が狸の面をつけて踊ったことがきっかけだと言われています。
治兵衛の死後、彼の狸踊りが祭の場にないことを惜しんだ地元の町衆がからくり人形を作り、それを曳山にしつらえたのだといいます。
ある一人の人間が祭の場において人を楽しませようとした姿が400年の時超えて今に残り、私たちの目に映る祭礼となっているのです。

厄除け粽(ちまき)

大津祭の華やかさに彩りを添えるのが「粽撒き」です。
この祭のように、景気よく曳山の上から粽を撒いているのは今では珍しいよ光景となっています。 大津祭の粽は、天孫神社の宮司さんのお祓いを受けており、縁起物として尊ばれます。
この粽撒きを、家の玄関先や軒下などにつるしておくと、厄除けになり、一年健康で一家が暮らせると言われています。
一年に一度、祭の時にだけしか手に入らない縁起物として、この厄除け粽をお家に持ち帰り一家の無病息災を祈る、というのも、大津祭の楽しみ方の一つかもしれません。

俳聖 松尾芭蕉の墓

大津祭の催される天孫神社の近くには、義仲寺(ぎちゅうじ)があり、紀行『おくのほそ道』で知られる俳句の名人松尾芭蕉の墓があります。
江戸に住んでいた芭蕉の墓がなぜ大津に?と意外に思うかもしれませんが、ここにはわけがあります。
松尾芭蕉は源平合戦の頃の武将、木曾義仲を敬愛していたのです。

一時は平家を京から追い出し、天下に名を馳せた義仲ですが、粗暴さゆえに時の権力者後白河法皇に疎まれることになり、同族である源義経に討たれてこの地で31年という短い生涯を閉じます。
江戸期の俳人である芭蕉は、その豪快さとともに配下の武将たちに優しさと気配りを絶やすことのなかった義仲の人柄に惚れ込んでいました。
それは死にあたり、自身の墓を義仲のそばに建ててほしいと願うほどでした。
祭をきっかけに大津へ足を伸ばした際には、俳句の創始者であった松尾芭蕉の墓へ詣でる、というのもおすすめです。

 

動画

[4K]華やかな12曳山お囃子メドレー_滋賀-大津祭 宵宮2022

最終更新日:2023.06.16

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